最近のなやみ

わたしは整理整頓ができない、と書くとなんだそんなこと、と笑われてしまいそうだけどなかなかこれが厄介で、目下のなやみとしてかなりのウェイトを占めている最近。
今までも同様だったのになぜ今さらなやみはじめたかというと、職場のデスクの散らかりようがひどいからです。触れたそばから散らかっていく書類、文具。
整理整頓ができない理由をじぶんなりに考えてみたんですが、

ご無沙汰しております

ここに物を書くのは久しぶりになりますね。
それにしたってTwitterの手軽さは恐ろしいです。
だって簡単に長い文章が書けなくなってしまう。
「言いたいことを限られた字数で端的に表現するためのレッスン」とか自分なりに定義づけて使えればいいんだろうけど、私のような怠惰なにんげんは「思考自体を140字で収まるサイズに調整する」という行為に無意識に走っている気がしてならない。
その証拠に今、ありもしない画面下の残り字数を探してしまっていますw完全に調教済みです。

人生は選択の連続だといったのは誰だったんだろう。
2012-2013にかけて、その言葉の意味をはじめて、その重さのまま知った気がしています。
そして年を経るごとに、「覚悟」が要ってくるんだということもまた。
ふわっふわ生きてきた私にとってはかなりショッキングな形でそれを思い知らされたわけですが、
多分私は能動的な死を選べるにんげんではないので、
どうにかこうにか自分の生に付加価値を見出して、
なんとかかんとか生きていくのだと思います。

ありがとう。
踏みにじられた思いも、叶えられなかった夢も、
破られた約束も、砕かれた希望も。
確かにあの瞬間、私を生き長らえさせてくれた。

ここ数日

友人の映画に参加。
主演。10分の短編映画。女子高生。女の子の友情。

撮影現場。
人間関係。適材適所。采配の重要性。
おのおのが、深めたいと思っている専門分野に対して真摯で、やりとりの端々に敬意と清々しさが感じられて良いなと思う。

今までやってきたクラシックバレエ(舞台)や演劇と、キャストとスタッフとの関係性が全く違うのではじめは戸惑う。
クランクアップしたあと、監督をつとめた友人にそれを伝えたら、作品の所持者の違いが理由であることが分かった。
演劇は、幕が上がれば演者のものだ。
映画は、つくる過程ではずっと監督のものだ。

なんて有難い経験をさせてもらったんだろうと、なかば呆然と思っています。

バターナイフ

近ごろ、人間関係に於いて主体性を放棄している。
とてもいい意味で。
もうあんなに厭っていた誤解をも恐れないし、そもそも、誤解というのは実際があるからこそあらわれる概念であり、今の私に実際などないありはしないという気づきのもとでは、誤解など生じる筈もないのである。

どう捉えられても構わない。
減るもの、削られていくものは何一つもない。
誰かといることに楽しさしか感じない。

そう思いながら誰かといることは、とても気楽で、自由的においに満ちていて、風通しのいいことなのだな、と日々肌で感じている。

あなたじゃなければだめなの、は今は云うことも云われることも欲していないかも知れない。後者は有難いけれど。

多分この性質はもともと私の中にあったものだけれど、ここまでその場が楽しければオッケー、が加速するのは久しぶり。その場をしのげればオッケーはデフォルメだけれども。


お酒の波にのって、初雪のように溶けてしまう会話を降り積もらせていくこと。
溶けてしまうからこそ惜しむことだってできる。