Phantom-Limb (小谷元彦展 幽体の知覚)

森ビルまで展覧会をみにいってきた。
元々行きたいと思っていた内容だったのに加え、ちょうどエントリーシートの出願〆切ラッシュでわりと精神的束縛の多い日々を鈍い身体でうつろに遣り過ごしていたので、精神のカイホウも兼ねての鑑賞である。

美術鑑賞が好きなくせにかけらの知識も持ち合わせてないため、小谷元彦というアーティストも初めて知ったのだが、作品をみて解説をよんでいく内に、この人は「表面・身体の違和感・人の死生観の根源・五官への刺激が齎す内部の変化・或いは内部が刺激の書き換えに介入する度合」のようなことに興味をもち、非常に実験的・前衛的な態度で追究している人なのかなと勝手に思うようになった。

展覧会の会場にいると、「作品をみること」と「作品をみた自分の中で起こった精神活動をみること」が非常に短いスパンの中で繰り返されていることを自覚する瞬間がたびたびあった。それは心の中で大小の波が常に不穏に寄せては返していっているような感覚で、じっとみてたら気持ち悪くなりそうなしろものだった。そういう現象を起こす、感情を掻き立てるのも勿論狙いのひとつだったのだろう。



以下はとりとめのない羅列。鳥頭の自分用。おまけに長い。
「Phantom-Limb」
恍惚とした表情を浮かべる顔には、しっかりとメイクがされている。でも、どこかにはある感じ。
「Dying Slave」
遠心力をかけながら垂らした蝋蜜のおうとつで形作られた髑髏が延々回転運動を続けているさまは滑稽だ。圧倒的な存在感をもつ物体の半永久的にも思える運動を見ていると、空しさが去来した。その隣に設置してある画面は、バレリーナトウシューズを履いてフェッテをし続けている映像を、真横にして、体を何箇所かポイントで切断し、微妙にずらしてコラージュした作品。(状況説明のへたくそさよ)
人間の身体がトウ(つまさき)一点に支えられて、10回も20回もくるくる回り続けるなんて、普通に考えたらありえないことだ。
そのありえないことを「ありえること」にするために、バレリーナは並々ならぬ鍛錬を積む。肉体・神経をコントロールする。生命を消耗する。
関係ないが、フェッテの、パッセにしていた足が一瞬放り出されて、そのつまさきが空気をかき回すように再びパッセにポジショニングされる瞬間がやっぱり好きだと映像をみながら思った。水を掻くカヌーのオールのようでもあり、獲物をとらえる爬虫類の舌のようでもある。その息を呑むような運動が好き。
「Classical Dive」
死んだ動物に再び死の瞬間を演じさせるというコンセプトに、単純にぐっときた。「あっ」と思わず声をあげてしまいそうなくらい、それは「生」が突然終わりを迎える瞬間を表すことに成功していた。死生について考えるいいテキスト。
「I see all」
信じるというのは、ある意味盲目的な行為である。解説の「目を失わなければみえないものもあるのではないか」という言葉で物思いに沈んだ。崖の途中にあった白骨化した頭蓋骨はやや過剰かなと思ったり。
Hollowシリーズ」
皮膚感。電子レンジでチンした牛乳の表面に張った膜。テクスチャーの感じ。精神の具現化。真っ白で光にあふれた空間。
ある種の救いなのかな、と思ったり。

 「愛をもって、とどめをさす」という言葉が今も耳の奥にこびりついている。